【その声を覚えていたこと】

もう全てを捨てた筈だったが、
まだどこかに残っていたのだろう。
肝心な事はよく忘れるほうだが、
まさかこんな過去を思い出すとは思いもよらなかった。
 
その声は相変わらずで、
俺はもう二度と呼ばれない筈の名前で呼ばれていた。
携帯の向こうから、申し訳なさそうな、
控えめな声で、あの頃と同じ喋りだしだった。
 
全ては過去の話。
でも、俺の口からもやはりあの頃と同じような言葉しか出なかった。
  
あれから数年が経ち、個人的には激動の時間を体感した。
 
いつのまにか、戦うことも逃げることも出来なくなった。
もしも今の自分を的確に表現するなら、
よどんだ空気。
 
何もかもから、夢も興味も、存在さえも薄れていく自分がいた。
 
職場での作った自分が今の自分の全て。
もう自分自身なんてとうに消滅した。
本当の自分なんて、どういうものだったか、とうに忘れてしまった。
 
 
そんな空白の生活に、美化された思い出が流れ込んでくる。
こういうとき、思い出を美化してしまう人間の特性が憎くてたまらない。
 
そして、その電話は、あの時の真実を告げた。
 
 
 
 
 
 
でも、もう、遅いんだ。
情熱も、やさしさも、喜びも、怒りも、悲しみも、何もないんだ。
もう、俺には何もないよ。
 
 
 
過去は変えられないよ。
手のひらを流れ落ちた水を、
 
もう一度すくうことなんて、できやしないんだ。